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Raygun Suitcase / Pere Ubu 

あの、正直よく知らんのだ、ペル・ウブのことなんて。
ペル・ウビュのことなんて。そんなこたーどーだって良いのだ、本当は。

よく、誰彼はいつ頃が一番良かった、とかそういう話を耳にする。
それは確かに「一般的に」そうかも知れないが、ボクにとってそうかはわからない。
もちろん「一般的に」そうであることは、ボクにも当てはまる可能性が高い。統計的に。
音楽やアート(!)に関しても、このことは例外でないだろう。

ただ30も近くなってくると、曲がりなりにも分別というものがついて来る。
色々と、どーだって良くなる。だからと言ってそれは「投げやり」と同義ではない。
もしもそうなら、ボクはこんな無意味な文章を書かないし、哲学書だって読まない。
シラフなのにジャンキーみたい、そんな年齢に差し掛かっている気がする。

とにもかくにもキャリアの長い彼らだから、その中から一つを選ぶのは大変難しい。
ましてや、ボクの場合、たまたま中古レコ屋で巡りあっただけの話だ。

でも、こういうことって、我々が生きていく上でとても重要なことだと思う。
「たまたま巡りあった」ことと「分別」や「センス」は互いに貫入し合う内容で、
どちらか一方が優位だとか、そういう類の問題ではない。

現時点で、ペルさんについてボクは、この作品しか「知らない」。
だけど、ボクは間違いなくこの作品が好きだ。「大」好きってほどじゃないけど。
少なくとも、この音を聞きたくなる瞬間がある。それって結構すごいことだ。
「好きだ」と公言したくなるものは多いが、ある特定の時間、シチュエーションで
無条件に聞きたくなる音楽、音というものはそんなにはないんじゃないかと思う。

何せキャリアが長いので何とも言えないが、良くも悪くもUSオルタナの重鎮である。
今宵言いたかったのは、「重鎮」ってもんに気をつけろ、ってことだ。
ボクは間違いなく、今回紹介した作品が好きだが、一般的には駄作かも知れない。

クラシックがロックになったということは、音楽の世界が封建制度を脱し、
権力者や創作者がその価値と権利を一般市民に譲り渡したということを意味する。

だからこそ、権力者、創作者、一般市民の全員が平等に責任を持たなければならない。
それぞれが、それぞれの立場で、それぞれに見合ったアンテナを持ち、
最大限それを張り巡らせることが、良きもの、正直なものを生み出す土壌となる。

とにかく、「重鎮」には気をつけろ、だ。
名作や記念碑的作品がアナタにとって最高とは限らない。
いや、むしろ「限らない」どころか、全然アナタは好きじゃないかも知れない。
その可能性があること、それが我々のような世代にとっての比喩でない「幸福」である。

ボクはこの先、いずれは必ずペル・ウビュの、いわゆる「名作」を聞くだろう。
良い作品かも知れない。でも、それはボクが現時点で「良い」と思う思いの否定ではない。
この音が聞きたい、と今晩彼がCDラックから引っ張り出されたことは、消しようのない事実なのだ。

2 / Neu! 

今年に入って、先月中旬の頃まではどうも頭がモヤモヤしていた。
とりあえずまた新録を始めたのだけれど、なかなかテンションがあがらない。
やる気が起こらないときは、何か他のことをしてみるしか仕方がない。

ひたすら酒を飲む。これは精神的には悪くない。あくまで対症療法だけど。
幸いボクは「泣き上戸」や「バッド・トリップ」にあまり縁がない。
どうしても苦手な相手と飲まねばならない場合などは別にして、
少なくとも一人で飲むときなどは、専ら「前向き」な気持ちになるのだ。

でもそれだけではあまりに自堕落なので、映画を見たり本を読んだりもする。
モヤモヤに打ち勝つために、無理やりにでも細々と録音は続けつつ、
飲酒や読書をするうちに先月は通り過ぎていったわけだが、久しぶりに結構
大きく落ち込んだので、トンネルを抜けるときに得たものもなくはなかった。

必要以上に時間を食ったけれど、新録もひとまず完成。近々アップします。
で、得たものが何かと問われると、これがとても哲学的な問題なのだ。
こういうとこで発表してしまうと、ひどく理屈っぽくなってしまうので、言いません。

さて、ノイ!の「2」ですが、これは正直期待以上の「2nd」とご紹介したい。
「1st」の、それもその「1曲目=ハロガロ」が時代を変えたとも言われております。
だがしかーし、気まぐれなジャーマン・アバンギャルド一派のことなので、
この「2」については「興味はあるけど期待はできない」、そんな感じでありました。

たとえばファウストの2枚目の1曲目なんか、ものすごくかっこ良い。
でもあとの曲はあまりよく分からない。まーこんな軽はずみなことを言うと
すぐさま大バッシングされそうだけど、ツェッペリンの「4」と同じような印象。

ノイ!の「1」はそこそこ最後まで聞けるけれど、だからこそ「2」がそれ以上に
聞ける作品になっているとは到底思えないなぁ、という予想でした。
ごめん、ノイ!さん、謝るよ。全然「1」より「2」の方が良いアルバムじゃん!

何が良いって、その内容がほぼ完全に「1」を踏襲しているところ。
「新しいことやろう!」っていう力みが全くない。確かに新しさなら「1」で十分。
だからこそ「1」をベースに「1」と同じテンションで遊び、戯れている。

さらに素晴らしいのが、アルバムの後半に登場する反骨精神に富んだアイデア。
実はこのアルバム、前半を録り終えた時点ですっかり予算が尽きてしまった。
どうしたものかと考えあぐねた結果、彼らは既存曲の回転数(再生スピード)を
極端に上げただけのものを別曲として収録したのである。

ああ、何というインチキ、何というプロフェッショナリズムの欠如だろう!
しかし、これこそポーズでない「パンク」、ありのままの「パンク」だとボクは思う。
そもそも現代の音楽に以前のような「プロフェッショナリズム」は存在しない。
天性の音楽的才能や手先の器用さがなくても、音楽はできる。音楽の民主化だ。

ファウストもその手合いだが、ボクには少し観念的過ぎる。
ノイ!の場合、観念だけでなく、どこか牧歌的な奔放さがある。だから好きなのだ。

The Band / The Band 

今晩はトリスのハイボールを飲みながら、「東京物語」を鑑賞した。
さすが名作と言われるだけのことはある。
さすが世界の小津と言われるだけのことはある。本当にそう思う。

うら若き10代の頃は「ハリウッドなんてクソ食らえ!」てなテンションで、
日独伊仏の古典的名作をよく意味もわからないままに漁っていた。
思い返すと、当時のオレは躍起になって一体何と戦っていたんだろう。
娯楽は娯楽で良い。逆に今は「アートなんてクソ食らえ!」と思うほどである。

実のところ、そのとき「東京物語」について抱いた感想は、とにかく「眠い」だった。
良い創作というのは、スノッブな理由で接する者に対して頑なに門戸を閉ざすらしい。
「世界の小津と言われるからには・・・」では駄目なんである。

年始に帰郷した。その晩、母親はそそくさと寝てしまい、父親は酔っ払ってダウン。
時計の針はもう午前二時を回っていたんだけど、何だかこのまま寝るのはシャクだと思い、
鑑賞にたえるものはないか探し回ったところ、ビデオ「東京物語」の発掘に成功した。
飲み残した焼酎を片付けつつ見始めたが、意外と長い作品なので結局途中で寝てしまった。

改めてちゃんと、と思ったので、荻窪のツ○ヤでDVDをレンタル。それを今晩見たわけで。
「世界的評価」なんていう肩書きは関係ない。ていうか、関係ないから「世界的」なんだな。
「西洋から見た東洋」という方法で、地域や文化を限定する静態的なモダニズムの価値観。
この作品を見る限り、小津はそういうものをあまりにもあっさりと超越しているように思う。

科白がとてもユーモラスで、登場人物すべてに対して好意的な解釈が可能だし、
同アングルで別内容を撮ることによる時間表現は、ただただ見事としか言いようがない・・・
というようなことはオスギに任せておけば良い。淀川さんも水野さんも亡くなったしな。

映画は見終わったものの、ハイボールの余韻が残っていたのでそのままロックに進んだ。
音楽が聞きたくなり、始めはビーチ・ボーイズの「20/20」あたりを、と思ったんだが、
どうもウィスキーにはアワヌ、と考え直してザ・バンドを引っ張り出してみた次第なんである。

とても評価の高いアルバムである。恐らくそういう理由で昔購入したに違いない。
「東京物語」の勢いで、「これも今のオレなら理解できるんじゃ・・・」と踏んだわけだが、
予想と相反して「今のオレ」でもまだザ・バンドにはかなわなかった。

いつかは渋すぎる声で「良いねぇ」と首肯ける夕べが来るのだろうか。
たとえばスクリッティ・ポリッティの「キューピッド&サイケ」など、「・・・やっぱりわからん!」
という作品を何枚か所持しているが、それはそれで意味があるような気もする。
だが無論、作品紹介にはなってない。わかるようになったら再レビューしようと思う。

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